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●不知火〔三〕
拷問(一)
落としの馬場と呼ばれる馬場鉄之進がアヤメを拷問にかける。
そこに北町奉行所石谷十蔵貞清がやってきて拷問を止め、アヤメを手当てし、奉行の許可なく定法を破った拷問をした馬場を牢へぶち込んだ。
そして石谷十蔵貞清はアヤメに詫び、座敷牢に移し、医師による手当てをし、面倒をみる女性をつけることにした。
奉行所の門前に石谷十蔵貞清宛ての書状があり、孫娘小百合の櫛が入っていた。貞清は息子(小百合の父)である武清を呼んだ。
そこに堀田備中守正俊と小姓の宮城音弥が制止も聞かず入ってきた。
宮城音弥が不知火一味の情報を持ってきた、と言ったとき、天井裏に潜んでいた忍びに刀を投げた。天井裏から落ちてきた忍びは石谷十蔵貞清を襲ったが宮城音弥が投げ飛ばした。
忍びが不知火一味と思った石谷十蔵貞清に宮城音弥は酒井の手の者だと話した。人質をとられている不知火一味が仲間を失ってでも奉行を殺しても何も得るものがないと言った。もし石谷十蔵が死ねば、忍びを不知火一味に仕立てて盗賊に遅れをとったものとして石谷の失態を糾弾するだろう。
またこの忍びの死体をどうするか?定法通り大目付・北修安房守に届けるか?酒井雅楽頭忠清と中山主膳のもとに行き真偽をただすか?いずれにしても時と労力がかかるので、死体を消し去るに限る、と言う。
そして堀田備中守正俊は宮城音弥が堀田上野介正信の事件での活躍ぶりについて説明した。
宮城音弥は女囚に会わせろ、と石谷十蔵貞清に迫るが、それはできない、と断る石谷。おそらく定法を破った拷問をして怪我をしているからだ、と問い詰める宮城音弥。
そこに石谷十蔵貞清の息子武清がやってきて小百合が誘拐されたことを話した。だから女囚が不知火一味だと確信している、と話す石谷十蔵貞清だった。
宮城音弥はそれを笑う。酒井から不知火一味と決めつけられそれをうのみにしたことが問題だと宮城音弥が話す。仮に盗賊一味を捕らえても酒井に恩を売られる。失敗したらおとがめを受ける。その罠にはまったのだ、と宮城音弥が続ける。
ではどうすべきか?と問う貞清に、今すぐ女囚を解放すべきだ、と答える音弥だった。現行犯ではない、証拠もない、目撃者もいないし、自白もない以上、証拠不十分で釈放しても問題無いはずだ、と音弥は続けた。しかし、石谷十蔵貞清は怒って二人を追い返してしまった。最後に宮城音弥は老中阿部豊後守忠秋に会うことを強く奨めた。
奉行所を出た二人に武清が陰からの力添えを依頼した。
石谷十蔵貞清と不知火一味の間には何か大きな確執があったようだ。貞清は息子の武清にその因縁を話し始めた。
島原の乱(一)
寛永十四年(1637)10月。肥後天草に大一揆が起こった。
同年11月、板倉重昌を隊長に副将として当時目付だった石谷十蔵貞清を鎮圧隊上使として派遣した。
島原の乱(二)
霊岸島沖の河村瑞賢の船内に、義賊・不知火党の首領、冬木道無、笹一角(草加竜之進)、宮城音弥、サブ(カムイ)、仁太夫(タブテ)、日州、草鬼、名張の五つが話していた。そこで冬木道無が石谷十蔵貞清との因縁を話し始めた。
二十年ほど前、切支丹狩りが過酷さを増していた頃、冬木道無は、切支丹狩りをし処刑する側だった。非人だった才蔵(冬木道無の昔の名前)は、女を殺すのはいやだ、と叫んでいた。才蔵が殺さねばならないのはおふうという女性だった。彼女は才蔵と母が行き倒れていたところを助けた人だった。おふうはこれも運命だと言い、自分を処刑するように、と才蔵を説得した。才蔵はおふうを刺し殺し、他人の意によって動かされるのではなく、自分で自分の道を歩むことを決心した。そしてその無宿溜から消えた。
才蔵はおふうのめいの幸を切支丹狩りから助け、オランダ商船の通詞を務める民国人の陳と言う男のもと、長崎の出島に隠れた。幸は明の娘に変装しメイドとして働き、才蔵は家畜の世話やと蓄役として重宝された。そしてオランダ人外科医の目にとまり手術の技を教わったりした。
そんな平和な生活も、出島に役人が来たことで終わった。二人は陳の機転により船で逃亡した。
島原の乱(三)
島原の乱が勃発し原城にこもった一揆勢だった。才蔵と幸もその中にいた。
緒戦では幕府軍は惨敗した。一揆勢の結束が高かったこと、幕府から派遣された板倉重昌や石谷十蔵貞清の地位が低く、九州諸大名から蔑まれていて九州諸大名が本気で戦わなかったことが原因だった。
そこで板倉重昌と石谷十蔵貞清は作戦を変更し持久戦に移った。
才蔵と幸は怪我人の治療に当たっていた。
そんな時、日置流弓術の秘技枝垂れ射ちを使って多数の者を殺した奴がいた。弥造という細作(スパイ)だった。彼のせいで、才蔵は一郎、ナミという二人の子を失った。
才蔵は狼煙玉が上がるとそこに枝垂れ射ちを十蔵がすることに気づき、見当違いの所で狼煙玉を上げ、枝垂れ射ちをする幕府軍に鉄砲を撃ちかけた。
これが才蔵(冬木道無)と石谷十蔵貞清の確執の始まりだった。
島原の乱(四)
寛永十四年(1637)11月、幕府軍は第二次鎮圧隊として老中筆頭・松平伊豆守信綱と大垣城主・戸田左門氏鉄(うじかね)を上使として派遣した。それは第一次鎮圧隊の板倉重昌と石谷十蔵貞清にとっては面子が潰れる話だ。しかも板倉重昌は戸田左門氏鉄から、百姓ごときにモタモタするな、とハッパをかける書状を受け取っていた。そのため、板倉重昌は損害を顧みず決戦を挑むことを決めた。板倉重昌が攻勢をかけることを知った一揆軍は迎え撃つ準備をしていた。
板倉重昌を止めようとして石谷十蔵貞清は板倉重昌の陣に向かう。そこを才蔵達が襲う。才蔵は天草四郎からもらった洋剣(サーベル)で十蔵と戦う。才蔵は十蔵を捕らえ、アゴを外し反省させるために生かしておいた。
翌朝、寛永十五年(1638)正月、板倉重昌が総攻撃を命じ自身が先頭に立った。待ち受けた一揆勢によって、板倉重昌は戦死し、鎮圧隊の死傷者は3000人から4000人に及んだ。一揆勢はわずか十数人だった。
第二次鎮圧隊の老中筆頭・松平伊豆守信綱は、持久戦に入った。そして石谷十蔵貞清には、絶対に死ぬな、と厳命した。
さらに、松平伊豆守信綱はオランダ船から原城を砲撃させた。15門426発の砲弾が原城の本丸を吹き飛ばした。
総攻撃は寛永十五年(1638)2月28日となった。鎮圧隊は10万余。一揆勢は2万5千から3万だった。九州諸藩は功を焦って27日に戦闘を開始した。戦闘は「切捨」つまり一種のジェノサイドだった。2月28日、一揆勢は3万7千名全滅。鎮圧隊の死傷者8000名だった。
才蔵は幸との待ち合わせの場所に行ったが、そこには石谷十蔵貞清がいて、幸を捕まえていた。幸は子を産んだこと、その子の名前がアヤメであることを最期に言ったが石谷十蔵貞清の放った矢で死んだ。そしてアヤメも・・・。
石谷十蔵貞清達に襲いかかった才蔵は崖から海へ転落した。
さらし首の前にたたずむ編み笠姿の僧侶。
それは才蔵だった。彼は警護する武士から馬を奪って、一揆で親を殺された孤児達とともに海に出た。義賊・不知火党の誕生だった。
島原の乱の戦後処理が始まった。松倉勝家は改易。寺沢堅高は天草を召し上げられ自害。抜け駆けした鍋島勝茂と軍監・榊原職直父子は閉門。石谷十蔵貞清と戦死した板倉重昌の子・重知も逼塞を命じられた。
閉門は門を閉じ窓を塞ぎ外との出入りを断つことだが、夜間の出入りは黙認されていた。逼塞はそれより軽く表門を閉じるだけで昼までも目立たぬように交通した。遠慮は門を閉じても潜り門は引き寄せただけだった。
石谷十蔵貞清に女児が生まれた。小百合と名付けられたが、一年も経たないうちに神隠しにあった。
処刑(一)
石谷十蔵貞清の話を聞き終わった息子の武清は、アヤメが神隠しにあった小百合、つまり自身の末の妹ではないか?ときく。
河村瑞賢の船内で草鬼が五つに、アヤメが石谷十蔵貞清の娘ではないか、ときいた。五つはこの世には詮索しない方がいいことがある、と諭す。
全てを話終わった冬木道無(才蔵)は、「すべての手配は終わった。いよいよ勝負じゃ。行くぞ・・・」と言って立ち上がった。
河村瑞賢の船から多数の小舟が出発した。
[感想]
冬木道無(才蔵)の過去が明らかになった。だが、敵の副将格の石谷十蔵貞清を捕らえながら、放してしまったのは作戦上の大失敗だった。捕らえておけば、原城内の士気が上がり、鎮圧隊の士気は下がったことだろう。
アヤメはおそらく石谷十蔵貞清の末娘なのだろう。アヤメ奪回作戦はいよいよ次巻だ。