半藤一利・保坂正康二人によるジャーナリズム批判。
対談の中で心に残った言葉。
「新聞社や雑誌社に勤めていたらジャーナリストか?」
「メディアが、裏調査、分析、判断をしなくなり、責任をとらなくなった。考える暇がない。・・・あれよ、あれよという間にファッショ化する。」
日露戦争時に戦争賛美したら新聞社の発行部数が二倍から三倍に伸びた、という数字の伸びには驚いた。大東亜戦争開戦時には、亀井勝一郎や清水幾太郎も含めて当時の知識人が皆喜んでいる。一方、『信濃毎日新聞』の桐生悠々というジャーナリストは、媚びなかったため会社をやめ、個人で小さな雑誌を始めるがそれさえも検閲に引っかかり、検閲官に尊敬されさえする。
「紀元2600年の国家行事が国家体制の整備と統一が大体けりがついて打ち上げだった。」のは驚きだった。
ジャーナリズムと国民の関係について、心に残った言葉。
「劇場型になってきた言論封殺の暴力」「解決を求める抗議ではなく、一方的な相手を痛めつける暴力」「いまは普通の人が暴力に走りやすい」「結構いい年になってからナショナリズムにかぶれると、どっぷりとはまりやすい」「思想にはまり込んで疑わないのは、一番楽なんですよ。全てが一元的に割り切れるから。」
「権力は四角形の枠で弾圧してくる」という図は、わかりやすい。
そして半藤一利氏が言う「40年周期説」というのは、この年齢になるとわかる気がする。人口に占める世代の割合が変わっていくことが原因だろう。2032年にどうなっているだろうか?
序章 いまなぜジャーナリズム論か
第一章 戦争報道と商業主義
第二章 テロと暴力賛美の歪み、その内側
第三章 国際社会との亀裂の広がり
第四章 国家の宣伝要員という役割
第五章 暴力とジャーナリズム
終章 現在への問いかけ